レイに借りて読んだ。女性論の古典。いささかの古さを感じるのは社会が寺山氏方向に若干変化したためだろう。
ある思想が強く支配している社会はその思想に真逆の思想を生み出す。
例えば、儒教に対する道教、キリスト教に対するニーチェなどである。
この寺山修司の「反結婚」「反貞操」を説く作品からは当時の「古い」道徳観を逆に感じさせる。(「古い」と書いたのは実はそれほど古くないから、「古い」道徳観は明治初期に産まれ浸透したと同時に崩壊し始めたといってもいい。)
印象に残った部分を以下に書き写す。
「腹がへったら料理をし
身ぎれいにしたければ洗濯をし
ボタンがとれたらつければいいのだ
下手であったら上手になったらいい
それが自由というものだ
女にたよることなんかない」
「私は化粧する女が好きです。そこには、虚構によって現実を乗り切ろうとするエネルギーが感じられます。」
「人生のどこかに『まことの花』を据え、他を『時分の花』として区別する思想が、疎外を生み出す要因になります。」
「赤ちゃんもまた人間である限り、だれのものでもなく、自分自身のものである筈です。人間が人間を(道具や玩具のように)所有しようという考えは、ほんとは間違いなのです。」
「独占的な愛情関係は、やがては人間が人間を私有する、という怖ろしい生活習慣の原基となっていくのです。」
「だれだって、いつ新しい異性を愛しはじめるかも知れないし、同一の異性を一度きらいになって、また新しく愛しはじめるかも知れないのです。それを制度化して社会的に拘束してしまうのは、いささか非人間的なことだと気づくことが必要なのです。」
「無人島で、男と女が出会い、愛しあったとしたら、その時二人に必要なものは、食べ物、衣服、そして青空とバラック建ての住居と想像力であったかも知れないが、結婚などという相互私有の制度などではなかった筈です。」
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はなちゃんへ
これは博愛主義とも真逆。あと文句はこれは寺山修司の言葉で僕の言葉ではないので。
ミサトへ
面白そうでしょう。
レイへ
寺山修司は君のバイブルやったね。